本当は…。

slowlearner_m2011-02-22



本当は、昨日に続き『マイキー&ニッキー』のある側面について書きたかったのですが、明日書こうと思います。
今日は、デスクワークに精を出し、その後、夜からは、3月にクランクインする映画の脚本打ち合わせでした。
18:00から始まった打ち合わせは、終ったら0:00。
慌ててみんな電車に飛び乗ります。




移動中に、寝る前に、正直に言えば日常的に風呂の中でも読むのですが、読んでいた季村敏夫さんの『山上の蜘蛛 神戸モダニズムと海湾都市ノート』(みずのわ出版刊)を読了しました。



先日書いた『窓の微風』(みずのわ出版刊)の前著となります。
前著と同様に、季村さんのこの本を巡って、あれこれと考えることになりそうなのですが、その中の一章“「いたましさ」について”から、メモのように抜粋しておこうと思います。

「ほんとうのものは、「いたましさ」のなかからしか生まれない、肺腑を抉られるようなこの言葉を、ある出会いの中から私は贈られた。いのち旦夕に迫ったとき、ふりしぼるような声があった。一瞬、ふるえるような鼓動が梅雨空にながれた。雷鳴はなかったが、地の底からの痛切な記憶のふるえを、集まった一人が感じ取っていた。…陶芸家の河井寛次郎棟方志功へ贈った、〈遺憾なことに真当なものは大抵は痛ましい中から生まれるものなのだ〉、これは「兄のもっとも好きな言葉でした。この言葉を今はかみしめています」、通夜でのつぶやき。」


「「いたましさ」は、他者の苦痛をどうすることもできない事態に生じる。どうすることも出来ないが、精一杯尽くさねばならない。不可能性の問題であり、同時に関係の絶対性から逃れられないという他者性の別名である。「いたましさ」も、むごたらしさも、表現にとっては故郷である。」


『山上の蜘蛛』も『窓の微風』も、このような感情の中から生まれた本であり、この季村さんの言葉は、この2冊の本を貫く言葉のようにも思います。そして、また今日の打ち合わせの後に、ふと思い出したのも、この一節でした。人は時に愚かであると思います。私自身がそうであるように。そして、映画を作るということもまた、この「いたましさ」と向き合うことなのかもしれません。