『私は猫ストーカー』事始め〜その5

slowlearner_m2009-05-18


「路地は即ち飽くまで平民の間にのみ存在し了解されてゐるのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然と其の種属ばかりに限られた通路を作ると同じやうに、表通りに門戸を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自ら彼等の棲息に適当した路地を作ったのだ。路地は公然市政によつて経営されたものではない」


これは、永井荷風の『日和下駄』の一節です。

映画が立ち上がるまでの間、ひとりで自主ロケハンしていました。
こういう時に、大学の授業にもろくに出ず、東京のあちらこちらをウロウロしていた経験が役に立ちます。
今回は、門前仲町、森下…東京の東側を歩きました。
私は猫ストーカー』を映画にしようとした時に、漠然と今回は東京の東側、下町といわれた場所を撮るのではないかと思ったのです。
こんな時に、ウロウロしながら思い出されるのは、やっぱり『日和下駄』です。



荷風は、

「裏町を行こう、横道を歩もう」

と書き出します。

路地は、大きな道と違って、そこに住む人々によって、半ば自然発生的にできあがったもので、決して政府や国が整備し、作り出したものではない、と言っています。

この反骨心が、この映画の風景として、背景として必要なのではないのかと思ったのです。


「淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのまま打ち捨てて置かれれば結構、ややもすると取り払われるべきものである…私は淫祠を好む」


辞書によると淫祠とは、いかがわしい神をまつったやしろ・ほこら、とあります。土俗で信仰されている邪神を祀った祠のことをいうようです。

「路傍の淫祠に祈願を籠め欠けたお地蔵様の頸に涎掛をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。無尽や富籤の僥倖のみに夢を見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を企てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない」


ここにも「小さな声」しか持たない人々の「営み」が書かれています。

アレハンドロ・アメナバール監督の『海を飛ぶ夢』という映画の中で、四肢が不自由で安楽死を求める主人公を、やはり四肢が不自由な神父が説得しにきます。説得に失敗した神父が、帰ろうとすると、主人公の義理の姉…彼女は農婦なのですが、こんなことを言ったように記憶しています。

「わたしは、農婦だから難しいことは分からない。だけど、あなたは、うるさすぎる」



現在を生きているわたしたちは、彼らに比べて、声高で、そして喋りすぎるのかもしれません。