『私は猫ストーカー』事始め〜その4

slowlearner_m2009-05-17



私は猫ストーカー』を映画にしようと考えた時に、もうひとつ決めていたことがありました。

それは、わたしたちのすぐ隣にいる、ごくふつうの人間の平凡な暮らしを描く映画にしようということでした。
そこには、大事件はありません。ドラマチックな物語もありません。ささやかだけれども、この上なく多種多様で、突発的で、矛盾だらけで、陰影に満ちた出来事があるのです。

例えば、かつて小津安二郎監督や成瀬巳喜男監督が描き出した世界が、そうなのかもしれません。
テレビドラマですが、脚本家の向田邦子さんが描き出した名作の数々…『阿修羅のごとく』や『あ・うん』などもそうかもしれません。



岩波現代文庫に収録された『あ・うん』です。

「現代の人の口に上る合言葉、新聞雑誌の中に見つける新語、書物の中に出てくる学問上の術語、それらの多くは大きな言葉である、わたしたちが現に口にしていながら、それに気付かずにいるような、それらの親しみもあれば、陰影もある日常の使用語の多くは小さな言葉である。筆執り物書くほどのものは、いずれもこの小さな言葉をおろそかにしない…」

これは、もう60年以上も前に亡くなったある小説家の言葉ですが、かつて小説も映画も、このような声高にならない「小さな言葉」を描くために骨身を削り、工夫されていたのだと思います。

そんなことを考えている時に、市川準監督からお電話をいただき、まだ編集の途中だった『buy a suit スーツを買う』を拝見しました。



驚きました。
市川監督が現代を舞台に、そのような「小さな声」によって紡がれた「小さな映画」をお作りになっていたのです。そう考えれば、『BU・SU』も『病院で死ぬということ』も『トキワ荘の青春』も市川監督の作品のほぼ全部が、「小さな声」によって紡がれた映画なのでした。

「ふつうの人間の平凡な暮らしを描くとき、異常事などは要らない。私が期待するのは、まったく平凡な暮らしと、はるか彼方の天空とを、垂直に結ぶ一本の線が見えること、である。」(秋山駿)


それは、難しい作業かもしれません。
でも、『私は猫ストーカー』では、あえてそれに挑戦してみたいと思ったのです。