大友良英さんのこと

slowlearner_m2009-01-12


フィリップ・ガレル監督の『孤高』を公開した時、どうしてもやりたいと思ったひとつのイヴェントをしました。それは、音のない映画(一般的な意味でのサイレント映画というもののと、この映画は異なります)であるこの作品と、ミュージシャンがセッションをする、というイヴェントでした。
架空サントラ…と言っても、いいのかもしれません。
映画を上映しながら、ミュージシャンは、その流れる映像とセッションして演奏する。
参加して下さったのは、大友良英さん、Sachiko Mさん、杉本拓さんです。
このセッションの模様は、公開録音され、CDとなって発売されています。

その時、大友さんは、映写室から洩れて来る映写機の音を聴いて、この音ともセッションしようと言いました。
音のない映画である『孤高』は上映していると、映写室から映写機の回る音が聞こえてくるのです。しかもフィルムが掻き落とされて行く音が不規則に、高低に変化するのです。CDにもこの音は、もちろん記録されています。

セッションは、素晴らしいものでした。
リハーサルで映画を見ながら、彼らのセッションを聴いていると、突然涙が溢れ出したのです…。

大友さんとの仕事で、同じような事がありました。
安藤尋監督の『blue』を配給した時、大友さんの映画のための音楽のライヴを、HEADZの佐々木敦さんたちと協力して開きました。香港映画のための音楽、そして、安藤尋監督の作品のための音楽、そしてもちろん『blue』のための音楽を演奏した時、ふと振り返ると、宣伝部の、しかも大友さんの音楽をいつも聴いているわけではない女の子たち二人が、目に涙をいっぱい溜めて立ち竦んでいるのです…。
『blue』のサウンドトラックは名盤だと思います。

そして、大友さんの仕事からは、いつも多くの刺激を受けます。
そのひとつを、この文脈で取り出せば、『blue』の音楽には、ミュージシャンのほかにも原作の魚喃キリコさんをはじめとする非-ミュージシャンが多く参加しました。そして、知的に障害のある人たちとのセッション“音の海”(この音遊びの会によるCDは、横浜聡子監督『ジャーマン+雨』の音楽に使用されました)なども、同じ発想の圏内の試みなのかもしれません。
それは、単純化し過ぎることを畏れずに言えば、「いい楽器を使用している」「高い演奏技術を持っている」ということと「いい音楽である」ことはイコールではない、ということだと思います。『blue』での演奏を観た時に、これは、大友さんの“革命”が始まった、と思ったのです。

映画にも同じ事が言えます。
素晴らしいCGが使用されていること、凄い音のシステムを使用しているという事、デジタルの技術を駆使していること、クリアで綺麗な映像(それはほんとうに“美しい”のでしょうか?)であることと、「いい映画である」ことはイコールではありません。

フィリップ・ガレル監督は、そのことを“資本の罠”だとして、最も警戒しているひとりでもありました。