みつめること

slowlearner_m2010-11-29



今日は、昨日コメントをいただいた、あましまさんにお返事を書くような気持ちで、書きたいと思います。
いちばん単純に書こうとすれば、「みつめること」も「愛すること」であると思います。
『孤高』のフィリップ・ガレル監督について、誰かが「彼は心臓のかわりにカメラを持っている」と評しました。『孤高』は、そんなガレル監督らしく、彼が愛した女性達、ニコやジーン・セヴァーグを音のない世界の中で、純粋に「みつめ」ようとした=愛そうとした映画である、と言う事ができるかもしれません。




もしかすると…これは単に度合いの違いだと思いますが、文章で書く事は、それを言葉で置き換えることであり、絵で描くことは絵画記号に置き換えることであるとするなら、カメラで「みつめる」ことは、それよりも比較的ではあるけれども、「みつめる」身体に近い行為なのかもしれません。



映画はショットで構成されています。
海炭市叙景』に出演してもらった大森立嗣監督が、その打ち上げの席で、「割る」っていうのは、「寄る」っていうのは「愛」だよな、と何度も言っていたのが思い出されます。

それこそが、「割る」「寄る」場合の、まず第一の意義なのであって、物語を語るために映画は割ったり、寄ったりするのでは、ないのだとも思います。
しかし、割ったり寄ったりしないからと言って、「愛」さないわけではないと思います。
要は、どう「愛するか」という問題なのだと考えます。



海炭市叙景』のパンフレットに映画評論家の轟夕起夫さんが、「人間は、誰かが寄り添い、見つめてくれさえすれば、生きていける。」と題した評論を寄せくれています。「見つめる」=「愛すること」であるとするならば、加瀬亮さんが、「映画」は「日の当たらない場所」いる人間を描くものだと思う、ということも理解できるような気がします。



わたしたちは、何を「愛し」「愛したい」と思っているのでしょう?





あましまさん、『ゲゲゲの女房』をご覧いただき、ありがとうございました!