幼い哲学

slowlearner_m2010-07-24



以前にも書いたことがあるのですが、石井桃子さんが書かれた『幼ものがたり』(福音館文庫)は、何度も読み返す、大好きな本です。
好きな部分は数多くあるのですが、特にこの本の一番最後の章「一年生」に書かれている「幼い哲学」についての部分が好きです。



一年生になった「私」は、学校から「千代ちゃん」と一緒に帰ります。「千代ちゃん」と別れてから家までの5分間、「私」は「ターバンを巻いた異国人」などを呼び出して、その「孤独」を埋めようとします。


「ターバンのひとたちがあらわれていのたのは、そう長い期間のことではなかったようだ。私は学校にもなれ、千代ちゃんと別れても、かけだすようなことはなくなった。でも、私はいろんなことを考えるようになった。神様のことや、死ぬことなどである。」


その思索が、「千代ちゃん」の家と「私」の家までの間の家並みと深く結びつている、というのも興味深いのですが、やがて、


「私のこんな夢想と思索は、小学一年生のときがピークで、それからは、読書と雑事に場所を奪われてしまったようである。私は、字が読めるようになるまで、かなり手間ひまがかかったが、すらすら読めるようになるや否や、(ということは、たぶん一年生の終りごろ、)夢中で本を読むようになってしまった。そして、二年になると、私の学校に学級文庫ができた。もう帰り道のさびしさはなくなった。」

「私」は、小波山人の「日本昔噺」や「世界昔噺」、「アリス」の再話や「アラビアン・ナイト」を歩きながら読むようになります。


「そのようなお話は力強く、私のきれぎれの思索は、それに太刀打ちできなかった。/いま振り返ってみると、もう少しあとまで私なりの幼い哲学をつづけてみたかったと思う。」


この「幼い哲学」と「映画」は、とても関係があるような気がしているのです。
というよりも、私はこの「幼い哲学」が好きだったので「映画」に関わっているような気がしてならないのです。でも、その「幼い哲学」を思い出すには、ずいぶん年をとってしまいましたし、本の世界、言葉に寄って構築された世界に親しみすぎてしまいました。