東京ーチョンジュ

slowlearner_m2010-05-05



鈴木卓爾さま/おはようございます。/東京は本日のよく晴れておりますが、そちらは如何でしょうか?」


「おはようございます!/こちらは薄く雲がかかってる、陽射しのある天気です。/いわゆる春霞、あるいは、黄砂?」


これは今朝、『ゲゲゲの女房』のサウンドトラックを担当していただいている鈴木慶一さんのマネージャーさんと、チョンジュに滞在中の鈴木卓爾監督とのメールでのやりとり。
音楽をめぐるやりとりが、今日も東京とチョンジュの間で飛び交っています。
GWの最終日の東京は、今日もよく晴れました。





管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』を読んで印象的だったところ…。
本の終り近くに「翻訳=世界=文学」という章があります。この章のそれこそ終り近くに管さんは「単語の中にも、翻訳を拒むものがあります。固有名詞ではありません。普通名詞ではあるけれども、生活の中の情感にあまりに深くむすびついているがゆえに、翻訳すなわち他の言語に置き換えては、その意味が失われてしまうような言葉、別の生活や文脈や言語にもちこまれても、異質性をいつまでも保ちつづける言葉。」と書いて、ジェイン・ブロックというマサチューセッツ州ローレル出身のシリア系の祖父母を持つ女性エッセイストが書いた“Bread”と題されたエッセーについて書いています。


管さんが訳出してくれたこのエッセイは素晴らしくて、胸が苦しくなるくらい切なくなったので、是非読んでみて下さい。
移民が多く、話されている言語とおなじだけの種類があったローレルの町で、シリア系のジェイン・ブロックは幼い頃に食べた“シムシム”と“ザータール”という“パン”について書いています。
私はもちろん“シムシム”と“ザータール”という“パン”のことは知りません。
食べたこともありません。
しかし、こんなに切ない気持ちになるのは、なぜなのでしょう?
読むという行為の中にも“翻訳”があるのだと思います。

そして、「こうした細部にこそ、異質な人たちの心の、文章による以外接近しようがない心の領域が、はっきり表れると思うからです」「書き手という「個人」が、彼女の属している「共同体」とのあいだに結ぶ関係が、こんな風にはっきりと、まったくの他人である者にまでうかがえるようになるのは、文章による以外ありません」と管さんは書きます。


「こうして文章が手渡されるとき、それはつねに解釈と翻訳を求めているということなのです」