ゴーシュのセロについて

slowlearner_m2009-07-19



今日はお休みなので、以前のブログでちょっと触れた『セロ弾きのゴーシュ』について書いてみます。
私は猫ストーカー』に鈴木役で出演していただいた宮崎将さんを見ていたら、『セロ弾きのゴーシュ』をなぜか思い出したのです。


セロ弾きのゴーシュ』がずっと気になっています。何で宮沢賢治の作品の中でも、この作品が気になっているのか、自分でもよく分かっているわけではありません。小学生の頃、器楽部にいてコントラバスを弾いていたことも理由のひとつかもしれません。オタマジャクシもろくに読めないまま弾いていたのですから、ひどい話ですが、わたしがゴーゴーとコントラバスを弾いている前では、FくんとSくんがチェロを弾いていました。時々、楽器を交換して弾いてみるのですが、弓の持ち方も違うし、力の入れ方も全然違うので、音が上手く出なかったのを覚えています。


高校生の時に見た高畑勳監督のアニメ『セロ弾きのゴーシュ』が素晴らしかったのも、理由のひとつかもしれません。



その後、「PeeBoo」という絵本ジャーナルと銘打った雑誌を読んだ時に、ある記事を目にしました。それは『はせがわくんきらいや』や『とんぼとりの日々』の絵本作家の長谷川集平さんが責任編集をした号で、「描く前に見ろ、読む前に見ろ」という特集が組まれていて、そこで長谷川さんは「ゴーシュのチェロは描けているか?」と、これまでの絵本や挿絵がチェロの楽器としての形がいい加減に扱っていることに疑問を呈していたのです。


「…もし外国の画家が、自国のこどもに見せる絵本の、ゲイシャの膝の上に6本弦の楽器を描いたとしたら、われわれは失笑するに違いない。日本はまだ理解されていない、と怒る人だって出てくるだろう。
ところが、たとえばチェロという楽器を日本人に描かせると、とたんに怪しくなってくる。弦の数だけではなく、形、構造、大きさ、弾く姿勢、実にいいかげんになってしまう。…簡単に言えば、じゃ、チェロをあえて描かないことで、何をいったい描きたいの?という素直な問いを、画家たちに投げかけてみたいのだ。」


おそらく長谷川さんは、写実的に描かなければいけない、とか、デフォルメしてはいけない、とかそういうことを短絡的に言っているのではありません。まず描く対象に敬意を払い、そこから出発することの重要性を書いているのだと思ったのです。

「われわれもゴーシュに習って、謙虚に、まず見るところから、もいちどしずかに始めたいと思う」

そう文章は結ばれていました。

そして、これは、何も絵に限ったことではなく、表現ということの根幹に関わる問題ではないかと、ちょっと震え上がりました。「物への敬意」。そして、この言葉を「リュミエール」誌に掲載された大島渚監督と蓮實重彦さんの対談でも、また目にすることになったのです…。