退屈さについて

slowlearner_m2011-05-31



昨日、蔡明亮監督の『楽日』について書きました。
『楽日』を見て、映画における“退屈さ”について、仕事の合間につらつらと考えたりしています。
もし映画におけるショットが、その物語に奉仕する、物語を支える為に選択して撮られるのであれば、“退屈”ではないのかもしれないのですが、その物語に奉仕する度合いが低くなると、それは“退屈さ”として表れるのかもしれません。
何度も言うようですが、ここでは“退屈さ”を否定的な意味ではなく、すごく肯定的にとらえています。

ようするに映画の全ショットが、全身で物語に奉仕しているような映画は、好きじゃないのです。(もちろんそういう映画があってもいいのです)

『楽日』は、ある意味その極端な映画でした。
だから、この映画が時間が経つにつれて、じわじわと効いてくるのです。

うろ覚えですが、金井美恵子さんの小説か何かで、「煙草に火をつける時間は、煙草に火をつけるというそのためだけにある時間なのであって、他の何かに奉仕をしている時間ではない」というようなことを読んだことがあって、その「何ものにも奉仕をしない時間」というものが愛おしく感じたことがあります。

わたしたちは日々、何かの為に時間を使いがちであり、そうでない時間を極力切り捨てて生きていることが多いと思います。しかし、そうではない時間が映画に描かれることは、とても重要な気がするのです。上手く書けませんが…。

先日、渋谷で撮った作品では、そんなことを意識しながら編集してみました…。




震災後、事務所のビルの補修が始まりました。
不謹慎ですが、ひび割れの補修の感じが面白かったので…。



なんか今日は、すごくブレイク・エドワーズ監督の『ピンクパンサー3』が見たいのです。